7月某日
 相変わらず暑い日が続くが、今日は風があって、比較的すごしやすい。午後1時に、新宿の喫茶店で、白石顕二とアフリカ映画祭について相談する。民主化10年の南アフリカの映画を特集することは前から決めており、番組のプログラムもおおかた固まっているのだが、肝腎の会場と開催期間が決まらない。お金がないから、会場費が安くて、足の便のいいところを見つけるのが難しいのだ。いくつかの候補と、その際、援助してくれそうな組織や機関について意見交換し、今後の活動の方向性について話し合う。アフリカ映画祭は、もともとは白石がほとんど独力でやってきたものだが、昨年から、「アフリカ映像フォーラム」というNPO法人を立ち上げたのだ(なぜか、わたしが代表なんです)。

 白石と別れて、地下鉄で京橋に向かう。メディアボックスの試写室でやる『愛の落日』という作品を見るために。今年4月から、学校(ジャナ専=日本ジャーナリスト専門学校)に週3日、夕方までいるのでなかなか試写が見られない。今日は久しぶりの試写室だが、3時10分ぐらいに部屋に入ったら、すでに脚本家の荒井晴彦が座っていた。彼が「全州以来だね」というので、考えてみたら確かにそうで、彼とは5月の連休に韓国の全州国際映画祭で一緒になって以来だった。あのとき荒井は、彼が脚本を書いた『バイブレーター』が上映されるので、監督の廣木隆一や主演女優の寺島しのぶなどと一緒だった。彼らは、映画を見ないで、うまい食べ物を見つけることに精出していた・・もっとも、かくいうわたしも、その食事には同行したのだが……。

 『愛の落日』という、タイトルを見ただけでは、どんな映画かわからないこの作品、原作がグレアム・グリーンだということと(原題は『静かなアメリカ人』)、主演が、最初の作品『国際諜報員』('65)でいい味を出して以来、好感を持って見てきたマイケル・ケインだということ、それにベトナムが舞台になっているという3点で来たのだが・・監督は『セイント』('97)や『ボーン・コレクター』('99)のフイリップ・ノイス。結論からいうと、いささかぬるい仕上がりだった。
 物語は、1952年のサイゴンで展開する。冒頭、夜のメコン川を背景に、マイケル・ケイン演じる英国の特派員が、ベトナムの魅力を語るナレーションが流れるところなど、なかなか雰囲気があって悪くないのだが、テンポが緩いというか、肝腎のドラマの煮詰め方が弱いというか・・。シナリオにもいまひとつ問題がありそう(クリストファー・ハンプトンとロバート・シェンカン)。クリストファー・ドイルのカメラも、夜間や室内はいいのだが、昼間のシーンになると、とたんに光のとらえ方が間違っているんじゃないかと思ったくらいに生彩がない。
 マイケル・ケインの特派員には、ベトナム人の愛人フォング(ドー・ハイ・イエン)がいて、本国の妻と別れて彼女と一緒になろうとするのだが、カトリックの妻は、断固として離婚を認めない。しかも本国からは、ベトナムから引き揚げろという通達が来たりして、落ち着かない日々を送っている。そんなところに、自称「歯科医」のアメリカ人青年アルデン・パイル(ブレンダン・フレイザー)がやってきて、フォングに一目惚れする。
 『愛の落日』という邦題は、そんな三角関係を表に押し出したほうが、いまの日本で受けるだろうと思ってつけたのだろうが(なにしろ、この国では「愛」が大流行だから)、もともとのドラマの核心はそこにはない。というよりは、その愛のドラマの背中に政治が張り付いていたという点にこそあるからだ。というのも、この一見して好青年ふうな「静かなアメリカ人」が、実はCIAのエージェントであり、ベトミン(ホーチミンが組織したベトナム独立組織)の攻勢に立ち往生しているフランスに代わって、アメリカが自分たちの差配で動くベトナム人の新政権を作ろうと画策しているからである。
 だから、フォングが、英国の特派員から、アメリカの「歯科医」に乗り換えようとすることのうちには、彼女自身の愛の選択という問題と同時に、アジアにおける政治的な覇権が、老いたるヨーロッパから若いアメリカへと移っていく状況が重ねられているのでもある。もちろん、映画としては、必ずしもそういう政治状況を表に出す必要はなく、三角関係を煮詰めるなかで、浮かび上がらせればいいのだが、その辺が弱いのだ。荒井晴彦が、いかにもロマンポルノ育ちらしく、あのアメリカ人とベトナム娘がセックスしているところを出すべきだよな、といっていたが、その通り。それはポルノ的に必要というより、むしろ政治的な観点からも必要なのだ。性的な力関係のうちに(性の政治学)、現実の政治力学を映し出せるからである。

 終わってから、荒井と同じくシナリオ作家の加藤正人と一緒に、明治屋の下のビヤホールに入る。面白い映画を見たときにはもちろんだが、それほどでない映画の場合でも、ビールで喉の渇きをいやしながら、あれこれ映画の評定をするのは楽しい。そこで3人の間から出たのは……。
 企画からすると、これはやはりアメリカのイラク戦争を横目に見ながら、50年代にフランスに代わってベトナムに乗り出したアメリカが、60年代以降、どれほど酷い泥沼に落ち込んだか、みんな、それを忘れたの? というようなところから始まったんだろうなとか、だったら、なおさら『愛の落日』なんてしないで、『静かなアメリカ人』という原題そのままのほうが、いまの日本でも興味もたれるのではないか、配給会社は何考えてるんだとか。だが、それにしては、シナリオ段階での人物設定が甘い。たとえば、ベトナム娘のフォングには姉がいて、マイケル・ケインの特派員が、妻が離婚を承諾したと嘘をついたのを不誠実となじったりする場面があるが、彼女は、出自からしても、アメリカが後押しするベトナムの地主や民族資本家とつながっていても不思議はないし、そういう動きをちょっとでも見せれば、物語の厚みが出るのに、そうしなかったシナリオライターは勉強不足だよなとか、いかにもシナリオ作家らしい意見も出る。
 ただ、わたしとしては、英米二人の男に愛されるベトナム娘という、オリエンタリズム臭紛々のドラマにしては、肝腎のヒロインにいまひとつ官能的な魅力が乏しい(当然ながら撮り方の問題もある)のが、何よりも物足りなかった。彼女が、観客を陶然とさせるほど魅力的であれば、ドラマの骨格であるオリエンタリズムが崩壊する瞬間というものを垣間見られたかもしれないだけに。まあ、この監督にそれを期待するのは間違いだろうが。でも、これを機に、グレアム・グリーンの原作を、お勉強がてら原文で読んでみようか、という気にはなった。

 お代わりのビールを飲み干したあと、映画美学校の試写室で6時半からやる緒方明の新作を見るという加藤について、片岡ビルの地下に降りる。 そして、これが大ヒットだったのである。
 緒方明は、監督デビュー作が『独立少年合唱団』で、これで2000年のベルリン国際映画祭で新人監督賞を受賞した。確か、日本監督協会新人賞ももらったはずだが、なかなかの力作だった。わたしは、その終わり方にいささか疑問を覚えたけれど、久々の本格派が現れたという印象をもった。だが、今度の『いつか読書する日』という作品は、それ以上の傑作。とにかく、主演の田中裕子が圧倒的に素晴らしいのだ。
 舞台は長崎で、物語は、この坂の多い街の夜明けに、田中裕子が、自転車を走らせて牛乳配達をしているところから始まる。彼女は、今年、50歳。この街で生まれ育って、高校生のときには作文コンクールで賞を貰ったりするように、文学好きの少女だったが、いまだに独身で古い家にひとりで暮らしている。そして、早朝の牛乳配達が終わると、今度は市電と競争するように自転車を走らせて、勤め先のスーパーマーケットに向かう。彼女はそこのレジ係をやっているのだ。
 その自転車を走らせているときの顔、あるいはレジ係として、次々と商品をさばいているときの顔が、まず、強く心に残る。それを、なんといったらいいのだろう。化粧っ気のない、常に変わらぬ無表情な顔が、一方で、どこにでもいる生活者の顔としてごく自然にその場に収まっていながら、他方で、この人は、いったい、どのような暮らしをしているのだろうかと気になる、というか、見る者の心を引きつけずにはおかない不思議な強さをもっているのだ。
 彼女は、早く父をなくし、高校生のときに母を失う。それも、母が、級友の父親で画家だった男の自転車に乗って、町はずれのホテルに行く途中でトラックに撥ねられるというスキャンダルがらみの事故で。しかも、その級友は、彼女のボーイフレンドだった。事故後、彼らは付き合いを止めるが、彼女はその後、30年間ひたすらその男を想い続けている。そして男(岸部一徳)は、余命幾ばくもない妻(仁科亜季子)を抱えながら、役所勤めをしている。・・といったことが、アルツハイマーの夫(上田耕一)を抱える老作家(渡辺美佐子)の語りや、彼女が毎朝牛乳を届ける家庭の描写を通じて、次第にわかるようになる。
 そこから見えてくるのは、平凡さのなかの非凡さといったものだ。
 つまり・・早朝の牛乳配達、自転車での通勤、スーパーマーケットでの仕事と、たまに親しくしている渡辺美佐子の家でビールを飲む以外は、家で本を読み、ラジオを聴くだけというような彼女の毎日は、他人から見れば、なんの面白味もない,淋しい暮らしと思われるだろうが、彼女自身は、それで十分満たされている。いわば、人が生きることの孤独を当然の前提として、そのなかで一日一日を充実させているのである。それを、見ているうちに、観客がごく自然に受け入れていくというのは、脚本(青木研次)と監督の手腕によるが、それを映画の画面において支えているのは、田中裕子の肉体であり、わけてもその顔なのである。  なかでも圧倒的なのは、早くから牛乳を配達してくる田中裕子の想いも、彼女に対する岸部一徳の夫の想いにも気づいていた病床の仁科亜季子が、田中を自宅に呼んで、自分が死んだら、二人は一緒になってくれと告げたときの、田中裕子の顔である。わたしは、この20年ぐらいの日本映画のなかで、これほど見事な女の顔を見たことはない。それは、もし、このような女が存在ずるとしたら、それは、このような顔においてあるしかないと思わせる、圧倒的な強度を帯びているのである。
 もちろん、田中裕子という女優は、三村晴彦の『天城越え』でも素晴らしかったし、吉田喜重の『嵐が丘』でも、この役は彼女しかないと思わせるくらい才能豊かな、力量ある女優だったけれど、『天城越え』ではまだ、美しさのほうが勝っていた。しかし、ここでは彼女もすでに中年で、しかも化粧っ気のない顔を晒しているのである。それでも、なお、ああなのだ。平凡さのなかの非凡さというのは、そこにもかかっている。しかも、その非凡さは、どこかで個性という枠を越えてある普遍性にまで達しているのだ。  この作品では、渡辺美佐子や岸部一徳はむろん、仁科亜季子も、上田耕一も、香川照之も、俳優たちはみんないいのだが、やはり田中裕子でなければ、こういう作品にはならなかったはずである。彼女を見るために何度でも劇場に足を運ぼうと思う。