8月某日
松竹の試写室で、久しぶりに『釣りバカ日誌15 ハマちゃんに明日はない!?』(監督=朝原雄三/脚本=山田洋次・朝原雄三)を見る。
 いやぁ、『釣りバカ日誌』を、それも試写室で見るなんて、何年ぶりか、というくらい久しぶり。 べつだん、とくに嫌いということはないけれど、見なくては困るという映画でもないからね。とはいえ、『男はつらいよ』のほうは、最後まで見届けないと、という妙な義務感みたいなものがあって見たけれど、これに関してはない。
 そのあたりは、渥美清と、西田敏行の違いでもあるだろう。渥美清の場合は、映画がどんなにワンパターンであっても、渥美清を見るという楽しみがあったからね、ま、渥美のような天才と西田を較べてみても仕方がないが(但し、渥美清の天才ぶりは、寅さんよりも、同じ山田洋次の、ハナ肇が主人公でクレージー・キャッツの面々が周りを固めた60年代の喜劇に、脇でちょこっと出ていたときのほうが端的に現れているが)、西田は、見ていて疲れるんだよね。たんに騒々しい役柄というだけでなく、この人は、常になんかやろうとしていて、それが五月蠅いのだ。映画俳優に演技はいらない、というのは、吉田喜重の名言だが、その伝でいうと、この人はどんなときも演技をしてしまうのだ。あるいは、無表情ということが出来ないのかもしれない。もっとも、森崎東の『ロケーション』のときなどは結構よかったから、監督によるのかもしれないが。
 それはともかく、シネマスコープの画面に松竹の富士山マークが出て、映画が始まると、ああ、これはいま唯一生き残ったプログラム・ピクチャーだな、という感じがして、ちょっと懐古的な気分になる。こういう匂いは、いま東映や東宝が直に作った映画でも、決してしない。そういう意味では貴重というか、絶滅寸前の恐竜を見たみたいで、ちょっと心を揺さぶられるが、むろん、それは過去に属することで、未来に関わることではない。
 だが、そういう昔の大船喜劇の匂いに引かれて見ていると、それはそれで心地よく、西田のハマちゃんが勤め、三国連太郎のスーさんが会長をしている鈴木建設に、経営合理化を勧める経営コンサルタントがあれこれ提言するのを、その助手的なポジションにいる江角マキコが疑問を感じてやめていくという展開も、それなりにすんなりと見られる。
 その江角の郷里が秋田で、ハマちゃんが強引に取った休暇で釣りに行くのも同じ秋田、ということになると、秋田を舞台にもう一つお話がないといけない。実際、後半は、江角と、彼女の高校時代のクラスメートで彼女のことを好きだった男(筧利夫)が、魚を孵化する研究所で働いているという設定で、お話が展開するのだ。このあたり、いかにもルーティン通りの展開なのだが、それも、いま唯一生き残ったプログラム・ピクチャーとしてはとくに悪くもないと見ていたのだが……。
 その先で、思わず呆然としてしまうようなことが起こったのだ。
 イヤ、その前段を見たときに悪い予感がしたんだけどね。というのは、三国のスーさんが家に帰ると、妻の奈良岡朋子がビデオを見ているのだ。それが小津安二郎の『麦秋』で、奈良岡が、やっぱり、小津さんはいいわぁ、なんていっている。そのとき見ているのが、この作品でもっとも有名なシーン……つまり杉村春子が、原節子に向かって、冗談めかして、「あなたのような人が、謙吉(二本柳寛演じる、彼女の息子で、妻を亡くして一人娘を抱えている医師で)のお嫁さんになって頂けたら、どんなにいいだろうなんて」といい、何度も、怒っちゃイヤよと、念を押すようにいうのに対して、原がごくあっさりと「あたしでよかったら」と、それを受け入れてしまう、それで逆に動転した杉村が思わず、「紀子さん、パン食べない? アンパン」という……微苦笑とともに人生の機微を感じさせる名場面なのである。
 それとまったく同じことを、吉行和子と江角マキコにやらせるのだ。すなわち、いったんは受け入れた結婚話を断った筧利夫の母親の吉行が、会社を辞めて、しばらく故郷で暮らす決心をした江角に向かって、これをやるのである。吉行=杉村と江角=原という組合せで。これには、わたくし、思わず試写室の椅子からずり落ちそうになりましたよ。
 まあ、引用ということなんだろうけどね。それも、その前に『麦秋』のビデオを見せているから、小津さんには一応ご挨拶したつもりなんだろうけど、でも、やるかね、これ。やらせるかね、吉行と江角に。べつだん、吉行はキライな女優ではないし、江角も、この人はなるべくセリフを喋らずに、黙って走っていればいい(競走馬に似ているからね)と思うぐらいで、感じ悪いところなどぜんぜんないんだが、原節子をやらせる? 見ているこちらが恥ずかしいじゃない。慎みがない、とまではいわないが、これを良しと思ってやる監督と脚本の度胸には、心底、寒心した!
 ところが、「キネマ旬報」9月上旬号の特集記事を見たら、佐藤利明という人が、「『負け犬組』の彼女が、幼なじみの筧利夫との関係の着地点として、小津の『麦秋』の方法論を引用しているのである」という、日本語としてどうにも意味不明な文章に続けて、「平成16年のドラマを、昭和26年の映画のプロットで着地させる。これには唸った」などと書いているので、こっちは、唸るどころか、開いた口がふさがらなくてフガフガしてしまった!
 この前段の文章、意味わかります? 「『負け犬組』の彼女」というのは、江角マキコの役をさしているのよ。すると、この文章を素直に読むと、江角が、「幼なじみの筧利夫との関係の着地点」として、「『麦秋』の方法論を引用している」ことになる。でしょ?日本語としては、そう読むしかない。主語は「彼女」ですからね。なら、江角は監督か?これには、江角もビックリ、じゃないかね。それに「『麦秋』の方法論」って、なに? これ、どう見ても、ただ『麦秋』の一場面を引用しているだけじゃない。方法論もクソもない。方法論というなら、ぜひとも『麦秋』におけ小津の方法論に関して、佐藤利明さんのご意見を伺いたいもんだがね! 地下の小津も、唸るんじゃなく、うなされてるよ。だいたい、「関係の着地点」とかさ、「方法論」とかさ、ろくに意味も考えずに勿体ぶった言葉をひねくり回そうとするから、江角マキコを監督にしてしまうような、早とちりをするのよ。自分がよくわかっている日本語をお使いなさい。悪いこといわないから。
 「キネ旬」の編集者も、もう少し丁寧に原稿をチェックしたほうがいいんじゃない。